科学技術日本語における省略

科学技術日本語の文においては常に主語が存在する。これは日本語という言語の要求ではない。書く内容である科学や技術が常に主語を要求するからだ。ただし、読者が前後の文章から読者が主語を補える場合には省略することがある。

科学技術英語においても頻繁に省略がみられる。例えば、関係代名詞による後置修飾では、関係代名詞+be動詞が省略される。以下の例では、括弧内が省略できる(Master 1986)。

The plutonium (that was) stolen from the lab was never found.

The weather system (which is) approaching the coast is a hurricane.

The graph, (which is) shown on page 24, represents the final results.

ただし、英語は、主語がないと文が成り立ちにくいので、科学技術英語においても主語を省略することは少ない。

一方、日本語は助詞が各語の関係を示すので、英語のような文法上の制約がない。したがって、読者が補える場合は、書き手が主語をも省略する。特に、関係代名詞を用いた複文は、諄くなり過ぎるきらいがあるので跡形がないほど省略される、特に話し言葉では。

これまで日本語の文法の議論において、極度に省略された文の文法上の解釈が問題になってきた。まず、「象鼻文」と言われる

象は鼻が長い。

がよく議論されている(三上1960)。この文には主格を表す助詞「は」と「が」が重なって現れるので、どっちがこの文の主語なのか、一つの文に二つの主語とはいかなることか、もし一方が主語でもう一方が主語でないとしたら、主語でない方はいったい何を表しているのかと、混乱した議論が続いている。その結果、助詞「は」は主語を導くほかに「主題提示」という特別な機能を持つとされる(森田2007)。この機能は、なぜ「鼻が」の他になぜもう一つ「象は」が必要なのかという議論から生み出された。そもそも「主語」の機能は「主題の提示」なのだから、この議論は全く混乱していると筆者は思う。しかし、ここで

「主語を示す」他に「主題の提示」を「は」の機能に付加する→

「主題の提示」の機能があれば、主語を示す必要がない→

「主語」は必要ない

とどこまでも屈折した議論が続いて、その果てに「日本語には主語がない」とか「主語が必要ない」という本末転倒な説をを唱える論者も現れた(例えば三上1960; 金谷2002)。

筆者は、象鼻文を以下のような省略された文と考えている。

象は(動物である、其の)鼻が長い。

つまり、もともとの形は関係代名詞でつながれた複文であり、「象」は主文の主語、「鼻」は従文の主語である。一文に主語が二つもあるというわけではない。このように考えると、『「は」が、主語を導く機能の他に「主題の提示」を示す機能を持つ』という屋上屋を重ねたような主張の必要性がなくなる。

また、うなぎ文というのもあるらしい(佐藤1992)。

「君は、何にする?」

「僕はうなぎだ」

これは、話し言葉の例なので科学技術日本語の範疇からは外れるが、

僕(が食べる食物)は、うなぎだ。

の省略の結果だろう(佐藤1992)。少なくとも話し言葉ではこの程度の省略は十分あり得そうだ。さらに「こんにゃく文」というのもあるらしい。

こんにゃくは太らない

これは、以下の文の省略だろう。

こんにゃくは(食物だ、其は人が食べても)太らない。

この文も、関係代名詞を含む複文の省略形とすると、無理なく理解することができる。

このような、省略が多くて奇形的な文を集めて、日本語全体、特に科学技術日本語のような書き言葉の議論の例に用いるのは、あまり生産的ではないように筆者は思う。

1)P. A. Master, 1986, Science, Medicine and Technology, English Grammar and Technical Writing, Pretice-Hall Inc., Eaglewood Cliffs, New Jersey 07632.

2)奥津 敬一郎、1978、「ボクハウナギダ」の文法、くろしお出版

3)金谷武洋、2002、日本語に主語はいらない、講談社

4)佐藤 雄一、1992、うなぎ文の構造、千葉大学文学部国語国文学会、20、57-73。

5)三上章、1960、象は鼻が長い 日本語文法入門、くろしお出版

6)森田良行、2007、助詞・助動詞の辞典、日本アイアール株式会社

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